エッセイ

「生徒の涙 -春まだ浅い教室での出来事―」

現在は60代の再任用教員ですが、20代後半に2校目の高校に赴任しました。担任を二巡りした後、30代後半で学年主任となったのです。

春、さわやかに1学年団はスタートしましたが、入学直後から数名の生徒が想定をこえる問題行動をおこし、教師の指導が後手にまわる状況が続いていました。その後も、実績ある集団づくりや授業の実践が全くといっていいほど機能せず、学校が生徒にとって安全で安心な居場所でなくなっていきました。入学してきた生徒の層が変わっていることに気づくのが遅すぎました。すべては学年主任である私の責任であると考え、教師になってはじめて仕事を辞めたいと考えました。振り返ると、30年を越える教師生活の中で、体力的にも精神的にも最もきつい時期となっていたのです。

夏休みになり、校外の研修会など様々な機会をとらえて自らの立て直しを図りました。最後にドアをノックしたのは、日本滞在中の米国人心理学の博士でした。彼とは研修に参加するなど面識がありました。現在の状況を伝えると、彼は「今まで生徒や先生から、どんなところが一番いいといわれてるのかな?」と尋ねたのです。「話しやすいとよくいわれます」と答えると、「その資質を手放しても、前に進みたいかな?」と質問を続けました。意味がさっぱりわかりませんでした。が、思いきって同意しました。すると彼は「アカウンタビリティ」「投影」「補償行為」といった心理学用語を使い、人生の出来事は学ぶことがあるから起こるのであり、生徒たちは実は教師の内面を映し出す鏡で、彼らに手を差し伸べることは自分自身に手を差し伸べることでもある。「いい先生」を手放して「ありのままの自分」を表現してはどうかと話してくれました。

この日を境に少しずつ思考と心が整理でき展望が開け、気がつくと腹が据わっていました。秋になり2学期が始まりました。生徒や教職員のためにも何としても体制を立て直したいと考え、学年団で2年進級時に仕切り直しをすることを決め、全員で断行しました。後に、ある副担任が当時を振り返って「生徒に土俵際まで追いやられた教員集団が、中央に向けて少しずつ押し返し始めた」と表現していました。

まず高校生としての制服など外面から整え、次に授業規律などの内面についても徹底して指導していきました。進級時の決死の取り組みは徐々に実を結び、2年次の冬を迎える頃には、学び舎は安心で安全な居場所を取り戻していました。

3年になると生徒たちも教師が真摯に向き合ってきたことを理解し、関係性が一段と向上していきました。そして3学期、卒業式目前のある日、一人の教師として忘れられない授業風景があります。

それは、高校生活最後の英語の授業でのことでした。卒業後就職する生徒が大半を占めるクラスでした。授業の冒頭で「今日で、最後やなぁ」と一言いうと、ある女子生徒が涙を流したのです。今でもその表情は脳裏に焼き付いています。春まだ浅い教室で、私たちはがむしゃらに向き合った3年間を一瞬にして振り返り、全てをありのまま受け入れたかのようでした。教師として、つらい思い出も、魂に触れる思い出も、このA高校の学年主任として生きた3年間の日々にありました。振り返ると、あのとき逃げずに何とか前に進むことができたのは、同僚や生徒たちのお陰でした。

新任のころ、担任が決まると必ずお祈りをしました。「今年は何も問題が起こりませんように」と。しかしそんな年は一度もありませんでした。しばらくして「ひょっとして子どもたちは、問題を起こしながら成長していくのだろうか」という考えに至り、それはすぐに確信に変わりました。

成長過程の子どもたちと、その子どもたちに向き合う教師が織りなす学びの空間は、つらいこともありますが、あの春まだ浅い教室の生徒の涙のように、そこに居る全員が一瞬ですべて癒す瞬間にも出会える空間でもあります。

さあ、共に学び、共に育ちましょう。