エッセイ

高等学校
2021/01/26
高校生はね、まだ、目が固まっていないんだよ
 

「高校生はね、まだ目が固まっていないんだよ」

大学院時代の恩師の言葉だ。研究職と教職とで迷った挙句に後者を選んだ私は、未練があるかのようにある文庫の悉皆調査の手伝いをしていた。教職に就いてからまだ半年の私は「そうなんですね……」と返すしかなかったのである。

和本の世界は広く、深い。活字化された教科書では漏れる部分が多いと確信した私は、授業で和本に触れさせた。勿論、江戸の版本ではあるが、和紙の薄さ、連綿の雰囲気、表装。モノとしての古典を生で感じさせる。触覚や嗅覚も活用してゆく彼らを見、半ば強引に「古典研究会」を作った。もちろん集まった生徒は一筋縄ではいかない「猛者」ばかりだ。

くずし字を覚え序文から跋文まで通読、作者の世界観やその社会に接続する。書誌学を学び「その本自体」がどう読まれたか、読み手の息吹を知る。古道や古跡を巡検し、その世界を体感する。ある者は清版の『爾雅』を通し、辞書の配列から電子書籍の未来までを論じ、ある者たちは『土佐日記』の諸本や読まれ方の変遷を調査し、教員に『土佐日記』を何のために教えているかというアンケートとっていた。先の恩師に言わせれば、「死を知る人(ホモ・メモル・モリ)」つまり、古書によって死者と対話し、ややもすれば外国文化以上に異なる「過ぎにし」世界と接続できるという。彼らは教室では勉強も運動も今一つという陰の存在だったが、古書を通じその広く深い世界に触れ、その調べる過程を確実にアイデンティティにしていった。そして、ユニークな人間の巣窟として古典研究会はいつしか文学部となっていた。

転機は何となく開いた句会をきっかけに俳句の大会に挑戦したことである。五人一組で俳句を創作し、相手チームと鑑賞力を競う大会である。

ことばを読む立場であったが彼らが、ことばを紡ぐ立場になる。言いたいことが十七音にならない、いやそれ自体が本当に自分の底にあるものなのかということまでも問い直される。

作った句は五人全員で守らねばならない。解釈を統一する。作者が読者に、読者が作者に。喧々諤々、助詞一字で解釈が全く異なる。季語や切れの効果はもちろん、視点や音韻にも目を向ける。また、相手チームの句は当日、試合の中でいきなり知らされ、そこで鑑賞するのだ。瞬発的に相手の句と世界観を読み取り、より良い表現には何が必要かということに全力を注ぐ。

そして何よりそれを相手チーム・審査員・観客の前で伝わるように話さなければならない。運動部の威勢がいい連中の影にいた彼らが、マイクを持って話すのである。

惨敗に次ぐ惨敗。しかし彼らはやめなかった。いや、むしろ涙まで見せるのだ。高校生男子が涙まで見せて何故続けるのか。それが「借り物ではなく、自分のことばを紡ぎたい」として知ったのは、全国大会に出場してからである。

嫌つても嫌つても俺水温む

毛虫這ふ無難を選ぶことなかれ

草の花摘むや自涜の手のかたち

恋人も金魚も新しい夜だ

母の日や湾の抱きし舟あまた

さらはれるために亀の子波を待つ

彼らが紡いだこれらの句には目を顰めたくなる部分もあるかもしれない。でも彼らは「高校生らしさ」よりも「自分」を選んだ。「高校生らしい」すがすがしい俳句は「作る」ことができる。しかし、それは彼らにとって「作る」ことを強いられるのである。それに対し「借り物でない、自分のことば」で描くこと――これが彼らの望んだ地平である。この自分のことばと世界が相手校にも、審査員にも伝わり、その良さを認められた時、彼らは今までにない満面の笑みと涙を浮かべた。それは優勝した時も、そうでなかった時でも変わらない。ことばを通じて自分を、世界を紡ぎ、伝え合うことで、明らかに彼らの目が変わったのである。

「高校生はね、まだ、目が固まっていないんだよ」

やっと恩師のことばが髄からわかった瞬間、この成長を味わえた瞬間に、中年にもなった私は、単純に涙するしかなかった。