エッセイ

中学校
2020/12/23
生き続けている記憶
 

教職から離れて長い年月が過ぎた。記憶から遠ざかっていく出来事が多いなか、現在もなお私を支え、共に生き続けている記憶がある。

教職に就いて二年目、初めて担任になり持ち上がった三年生、当時は全国的に校内暴力が吹き荒れていた。私の勤務校でも多くの窓ガラスが割られた。全校集会、学年集会、学級の話し合いが行われ右往左往の日々であった。そんな中で事件を目撃した生徒から確かな情報がもたらされた。私の学級からも一人の名前が挙がり、生徒指導主事、担任の私、生徒三者が北向きの生徒指導部屋で聞き取りが始まった。

生徒指導主事は強権的に生徒に迫ることなく、様々な角度からアプローチし自ら事実を話してくれることを期待した。しかし、生徒は一貫して否定し続けた。生徒の否定を覆すことができず、重苦しい空気がのしかかった。傍らでなすすべもなくうなだれていた私の目からその時、突如涙が溢れ出た。時をおかず「僕がやりました」という声が聞こえた。その声に益々涙が流れ落ちた。

この出来事には、例えば「子どもを信じる」ということの意味をはじめ他者との関係性の在り方など大切な学びが多く宿っている。教師を続けていくからには一つずつ掘り起こし、応えてくれた生徒をはじめ子どもたちに思い描く教師像を示さなければならない。大きな宿題をもらったが、その中には励みも内包していた。それからというもの今まで以上に子どもに向き合い、こころを聴く自分であろうとした。

この出来事から卒業までの間、生徒自身もずっと考え続けている事が日々の生活からうかがえた。卒業文集には「先生にすごくめいわくをかけたことで、すごく反省した」と書かれていた。言葉少ない生徒であったが精いっぱい自分の気持ちを伝え巣立って行った。新しい門出のうれし涙である。

その後の長い教師生活で感情的に怒ったり、生徒を十分受け入れられなかったりするなど悔いることは多々あったが、常にこの場面が蘇り原点に立ち返った。まるでドラマのような出来事であった。長い年月を経た今でも思い起こす度に胸が高鳴り熱くなる。