高校と大学の橋渡しとして
教職教育研究センター
恩知 忠司 教授
教員生活13年目に入った時のことです。当時高校教諭だった恩知忠司教授は、自分自身が煮詰まっていることに気づきました。「一晩寝かせたカレーのよう。コクはあってもフレッシュさがなくなっている。差し水をするように、新たな学びを取り込まないと、これ以上生徒たちに食いこんでいくことはできない、と思い至ったのです」と当時の心境を表現しました。偶然、大学院への内地留学の募集があることを聞き、これだと即断。35歳にして社会人学生となります。
「不遜にも大学の先生を侮っていた部分がありました。研究者は現場経験に乏しいはず、自分のほうが経験値は高いのだと」。しかし、「わたしが行ってきた指導について、何を意図してそうしたのか、それが子どもたちにどう影響を及ぼしたのか、その一つひとつを掘り下げて問われると何も答えられませんでした。いかに教育的に突き詰めることなく、その場しのぎでやってきたかということを痛感しました。要するに情熱と教師の勘だけだったのです」と振り返ります。「改心」して、自分より年下の指導教官に食らいつき、目の前の事象を論理的、教育学的に解きほぐすことに心血を注ぎました。2年ぶりの教壇で、その真価が発揮されます。「2年前と全く違う自分がいました。不思議なほどうまくいく。これまでならつまずいていたことにもスッと対応できる。真に学ぶ意味を知り、一皮も二皮もむけた爽快な気分でした」
教員生活21年目となる平成16年からは現場を離れ、大阪府教育委員会事務局で10年間、指導主事や参事として、府立高校138校の教育活動全般を担当しました。
そして、平成26年から人事交流により本学教授に就任。高校教諭時代とは180度景色が逆転したようで、「今までは大学へ教え子を送ってきたのが、いまはその教え子を預かる立場です。高校の先生たちの思いも預かっているので、責任も感じますし、同時にこの子たちは先生とどう関わり、結果、どんな教師をめざしているのかを知る面白みもあります」と語ります。
連合教職大学院では実務家教員として、かつての自身と同じ社会人学生と向き合っています。「皆、目的意識が高く、学びなおす理由もとても明確。ただ、一途すぎて視野が狭くなってはいけない。時には立ち止まって周囲をしっかりと見渡してほしい」とアドバイスを送ります。
授業は研究者教員とのティームティーチングで、教育課程をテーマに、それぞれの視点から切り込んで、理論と実践の往還を図っています。即興性に富んだ丁々発止のやり取りに、学生たちから「キラーパスの応酬だ」とのささやきが聞こえることもあるとか。「研究者の理論はハイレベルで、背伸びをしないと届かないこともあり、わたし自身、一人の院生になったような気分で聞いています」
「高校教員から、教育行政、そして大学教員と、自分でも想定外の人生を送らせてもらえました。これからは、その経験を還元するための仕掛けをさまざまにつくっていきたい」と今後の目標を語ります。その一つが、「府立高校教職コンソーシアム」との連携事業です。同コンソーシアムは、次代を担う教員を育成するため、大阪の府立高校32校で結成されました。本学も総力を挙げて、大学体験イベントや教師塾などを通して交流しており、「どちらも知っているわたしが橋渡しにならないと」と意気込みます。
そんな多忙な恩知教授を支えるのが、夕陽丘高等学校で校長を務める、理加夫人の存在。帰宅後も2人でよく教育談義を交わします。「良き理解者であり、ライバルであり、そして目標でもあります。自分はまだ校長を経験していないので」。最近は、同じく高校教諭となった娘の真央さんも加わり、教育談義は一層にぎやかに。教育一筋のDNAは、脈々と受け継がれているようです。