教員伝習所から大阪府師範学校へ(草創期)
草創期の変遷
上の地図は弘化時代(1844-1848年)のものです。少しデフォルムされ正確ではありませんが、本学草創時の学舎移動は、藩政時代の基盤の上で起きた明治初期の激動のひとつであったのでしょうか。
1.東本願寺難波別院 2.興正寺別院 3.常安町校舎(久留米藩蔵屋敷跡) 4.法円坂校舎
教員伝習所(東本願寺難波別院)
教員伝習所は、1874年(明治7年)8月東本願寺難波別院(南御堂)掛所内に設置され、翌年8月に「大阪府師範学校」と改称されました。
1877年(明治10年)2月に西南の役が起き、難波別院が総督府に充てられたため、興正寺別院に移転しました。
大阪府師範学校(興正寺別院)
1877年2月西南の役が起き、東本願寺難波別院(南御堂)が総督府に充てられたため、大阪府師範学校は興正寺別院(現大阪市北区滝川公園)に移転しました。同年10月まで使用されています。
大阪府師範学校(常安町)
1877年6月、久留米藩蔵屋敷跡(常安町=現大阪市北区中之島4丁目)に校舎を新築し、興正寺別院から移転しました。上本町校の出張所となった時期も一時ありますが、1901年3月まで使用されています。
大阪府師範学校(上本町鈴木町)
上本町鈴木町(現大阪市中央区法円坂町)の官立大阪師範学校(1873年=明治6年設置)が1878年2月に廃校となり、同所に大阪府師範学校が移転されました。
その後、常安町校舎は出張所として使用されていましたが、1881年2月に上本町鈴木町の校舎が官立大阪中学校に転用されたため、大阪府師範学校は再び常安町校舎に戻っています。
大阪府師範学校(常安町)
大阪府師範学校は、1878年4月に上本町鈴木町へ移転し、それまで使用していた常安町(久留米藩蔵屋敷)を同校の出張所として使用していましたが、上本町鈴木町の校舎が官立大阪中学校に転用されたため、1881年2月に再び常安町へ戻りました。
川に面した北側の門柱には「大阪府師範学校」とあります。
大阪府師範学校(常安町)
上の写真では、川に面した北側の門柱には「大阪府師範学校」とありますが、1882年の出版物を見ると、左門柱に「府立模範幼稚園」と書かれた絵が描かれています。
大阪府師範学校(常安町)
南側にも門があり、右門柱には「書籍館」、左門柱には「大坂中学校」と表示された絵が描かれています。
女子師範学科を附設
1885年(明治18年)府立大阪師範学校(1881年2月に大阪府師範学校から改称)に女子師範学科が附設されましたが、翌年、大阪府女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)として分離独立しました。狭いスペースに次々と校舎が増築され、1902年に堂島へ移転するまで使用されました。
女子師範学科が再置されたのは、1890年の大阪府尋常師範学校(=1886年9月に府立大阪師範学校から改称)に女子師範学科が設置されたときです。