若者に反映される教育の問題
栗林 社会全体の問題ですね。
井村 そう、子どもは大人の鏡ですから。本当は10歳ぐらいまでに経験しておかないといけないことです。世の中にある規律を、親や教師のような身近にいる大人が叩き込んでおく必要があるのに、それができていない。いまは大人が守りすぎる。優しすぎるのです。
栗林 かつての日本人は、社会全体で守る規律と、それぞれの心の中にある規律、その両方を重んじ、己を戒めることで国全体の秩序が保たれ、ひいては国際社会からも一目置かれてきました。いま、その秩序が崩れつつあることは、われわれ日本人皆が感じていることで、ゆとり教育の影響も、そこには含まれていると思います。わたしは、この教育の意図していたところ、基礎的学力をつけつつ、考える力を養うという考え方はいまでも間違っていないと思います。しかし、実際は甘えを助長するだけに終わり、真にめざすものが実現できなかった。
教師に反映される教員養成の問題
井村 教師一人ひとりの資質による部分も大きいと思います。教師を志す学生は、一様にまじめで優等生ですよね。でも教室にはさまざまな生活背景のある子どもたちがいる。当然、勉強嫌いな子だっています。わたしは、学校は勉強する場であるとともに、それを通して嫌なことから目を背けず、向き合う場でもあると思っています。シンクロが、高いステージに上がるために難しい技を会得しないといけないように、子どもたちも苦手な教科を克服し、乗り越えないと成長できません。その乗り越える力をともに育むために教師がいるわけですが、勉強を放棄する子どもたちを説得するだけの言葉を持っていない教師が多すぎます。どうして嫌いなのか、どうしてできないのか、自分は勉強ができたがゆえに、深く理解できていないのです。人を正しい道へと導くことに一律の正しい答えなど存在しません。さまざまな答えを知っておかなければ、子どもたちの反応が自分の答えに当てはまらなかったときに、病んだり、押さえつけたり、悪い方向に進んでしまいます。
栗林 これまで本学を含めた教員養成系大学では教科による専門的知識の習得に重点を置いてきました。しかし、教室の中にはいじめもある、暴力もある。教科書の知識だけでは通用しないと痛感しました。こうした問題に対応するために、本学では実践力の育成に力を注いでいます。改革の一例として、学校での体験実習を一年次からカリキュラムに取り入れ、早くから学校と関わる機会を増やしたり、企業インターンシップに代表される就業体験を奨励したりして、広く世の中を知り、現場で活きる力を養成しています。
井村 いろんな社会の価値観を知ってほしいですね。懐の深さを身につけるには、学生のうちか
らさまざまな価値観にふれる機会をつくり、心揺さぶる場面に出会うことです。そのためにも、できるだけ学校現場に出る機会をつくり、いろんな経験を与え、生きる力、人間力を身につけさせることが大事ですね。
多様な価値観と言葉を持つ教師となるために
栗林 昨今、新任教師が荒れた学校に配属されることを問題視する声が挙がっていますが、わたしは修行の一環として必要なことだと思っています。もちろん、大学は免許状を与えればそこでお役御免ではありません。教育委員会と連携し、一人前の教師に育て上げる責任があります。特に現職教員研修は、これまでも各地域の教育委員会と連携して進めてきましたし、これからもさらに強化した取り組みを展開していきます。
井村 それも形式的な研修ではなく、本音の研修をお願いしたいですね。わたしが教師だったころは、研修制度はなかったのですが、代わりに先輩の先生がいろんなことを教えてくれました。いまでも忘れられない思い出があって、駆け出しの体育教師だったころ、一人の生徒から「先生は自分の好みのトレーニングウェアを着ているのに、なぜわたしたちは皆おそろいの決まったものを着ないとあかんの」と質されたのです。わたしは、返す言葉が見つかりませんでした。職員室に帰って先輩の先生に相談したところ、「あなたは社会人だから、自由もあればそれに対する責任も負う、指導する側の人間でしょう。対して生徒は指導される立場であり、社会から守られている存在なの。そうであれば、守られているものとしてのルールに従う必要があるし、守ることで得ることもたくさんあるのよ」と教えてもらい、すとんと腑に落ちました。次の授業で自分なりに解釈したその答えを生徒たちに説明すると、皆大きく納得してくれました。日々子どもと向き合っている現場の先生からすればささいな助言も、新任の教師には金言となります。わたしにとって教師時代の8年間はいまの原点であり、命を張って人と向き合うことの大切さを教えてもらいました。あの経験があるから、国際舞台でのしびれる場面にも冷静でいられるのです。